落語・サウナ・松之丞

「止そう、また夢になるといけねえ」

ーー落語「芝浜」より

  

[Track.1] 落語

落語を聞いたことがあるだろうか。

 

明烏井戸の茶碗、死神、時そば、目黒のさんま、野ざらし…。快活に笑えるものからゾッと笑えるものまで、時代を経て楽しまれている古典芸能、落語。

 

インフルエンザに罹ってしまった大学生の頃、何も出来ず暇だったのでYoutube柳家喬太郎の「時そば」を見たときから、すっかり落語に取り憑かれてしまった。コロッケの気持ちになって演じられるその噺はまさしくエンターテイメント。斬新過ぎる「枕」に、落語の古臭いイメージは一気に吹き飛び、以後のめり込んでしまうこととなる。

 

いつか寄席に行って生で落語を見てみたいと思い焦がれて早幾年、ついぞ行かれずのにわかファンとなってしまっている(年内にはきっと必ず…)が、やはり動画越しで見ても、耳で聞いているだけでも、楽しいものは楽しい。

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落語というと難しいイメージを持たれる人も少なからずいるかと思う。

「△代目××亭〇〇」とかいう門下や世襲の制度、江戸落語上方落語や、古典落語新作落語の別など、歴史が長いだけに、取っ付きづらいところは確かに否めない。

 

だが、一度おもしろい落語を聞いてしまうと「これを超えるものが聞きたい」と思うようになることは請け合いだ。次々と演目を聞いて行くうちに「この師匠が」「この枕が」「この噺が」「ここまたが違って」と、好きな部分が倍々で増えて後戻り出来なくなる。趣味というのは押し並べてこのようなハマり方をするものだと思われるが、その懐の深さがまた小気味良いのである。

 

古き良き日本の風俗がべらんめえ調を通してその体温ごと伝わって来るのが良いし、噺に出てくる地所が実際に足の届く範囲に存在しているという地続き感もまた堪らない(目黒ではさんまを振る舞う祭りが毎年秋口に催される)。日本語を母語としている方であれば、ネイティブとしてこの芸能を母語で味わえる価値を、もっと知った方がいいと思う。これ以上ない贅沢ではないだろうか。少なくとも私はそう考えている。

 

 

[Track.2] サウナ

こんな訳で落語が好きな私だが、ひょんなことから定額音楽ストリーミングサービスのSpotifyでもこれが聞けるということを知った。まだラインナップは少ないが徐々に増えて行くことを期待している。

 

落語は演目によって長短はあるものの、大体1つ30~40分のものが多い。この長い時間をどのように聞いたら有効に活用できるのかを常日頃考えているのだが、先日結論が出た。自転車で片道90分かかる、練馬の銭湯に行く道中で聞くのだ。

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練馬区の銭湯「久松湯」。快適の極み。番台のおじちゃんが優しい。

 

ちなみに、なぜ銭湯へなどと思われる方もいるかと思うが答えは簡単で、1月16日放送のニッポン放送ラジオ「ミュ〜コミ+プラス」で吉田尚記が激推ししていた「サウナ」に入りたくなったからである。流行り好きの性分も手伝ってゆるゆると自転車を漕ぎ出す。

 

1)吉田氏本人によるツイート。流石「ととのっ」ている。 

 

r25.jp2)サウナで所謂「ととのう」ってどういう状態か知っていますか。

 

銭湯へはたまに行くがサウナに入る習慣はなかった。しかし、この入浴法がいかに楽しいものであるか、身を以て体験できた。というか、サウナなしの銭湯は少し物足りないくらいに、それはもう気分が良いものだった。

 

甲斐あって、真冬の風に晒されても、身体はポカポカ「ととのっ」て、往復の4演目で胸の蒸気をくゆらせるという、中々いい時間だった。

 

  一.柳家権太楼「死神」

  二.柳亭市馬「宿屋の仇討」

  三.五街道雲助「芝浜」

  四.柳家さん喬明烏

 

こちらがその4本。この内、五街道雲助師匠の芝浜は、旦那に色気があり良かった。暗い海から地平線の向こう側が白んでくる描写に至っては目にありありと浮かぶようだ。ああ良い。ひたすら良い。自転車を飛ばしながらニヤケが止まらない。ああ不審者。

 

 

[Track.3] 松之丞

神田松之丞という男がいる。講談という英雄譚を演じる講釈師。

講談は落語と同じく寄席演芸に分類される古典芸能だが、この男、面白すぎる。

 

女性7割・男性3割ともされる講談の世界で現在注目されている、35歳の若手講釈師で、2020年2月に真打抜擢昇進が決まった程いま勢いのある噺家である。氏の講談の凄まじさは一度見てしまったが最後、脳裏に焼き付いて離れることはない。一瞬で引き込まれるというのはこのことで、今後の演芸の歴史に名を刻む大器であることは誰が見ても分かることだろう。

 

本職の講談は書いたとおりなのだが、書きたいのはここからだ。

 

講談の世界と落語の世界、また漫才の世界というのは、芸能の繋がりがあるようで、TBSラジオ「神田松之丞問わず語りの松之丞」という彼がパーソナリティをつとめる番組では、よく伊集院光爆笑問題の太田などの名前が出てくる。

 

そんな中このラジオ内で、年明けから現在にかけて、漫才コンビのナイツ土屋を相手取ったやり取りが大きな話題になっている。

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笑いをふんだんに盛り込んだ怒り心頭の様子。

20分ノンストップの正論の嵐に笑いが止まらない。

 

話の発端は今年の年明けである。テレビ中継の収録があり、楽屋あたりで土屋が松之丞に話しかける。「子ども、出来たそうじゃないか。おめでとう」そう言って、松之丞にドラえもんのポチ袋にいくらか包んで手渡したのだ。

 

これを受けて松之丞は感激し「ありがとうございます」と受け取ったという。

しかし、問題はここからだ。出産祝いとしてもらったそのポチ袋を自宅に持ち帰り開けて見ると、中身がたったの1,000円だったのだ。この金額に松之丞は驚愕。1,000円じゃオムツすら買えねえぞという次第。お笑いの「ボケ役」はまだ常識があるが、「ツッコミ役」はクレイジーだとする論を展開するにまで至り、ラジオ内で20分延々と憤慨していたのである(この様子は字面にするとシリアスに見えるが、ブースで終始構成作家が爆笑している雰囲気の中でのことである点、ご想像頂きたい)。

 

これを受けてナイツの土屋はニッポン放送ラジオビバリー昼ズ」にて、「あれは出産祝いではなくお年玉。芸人仲間では慣例で、子どもが出来たやつには年明けに1,000円包んで渡すのがお決まりだった」と弁明するも、翌週の「問わず語りの松之丞」ではこれに真っ向から反論する松之丞。「お祝いを頂けるのには有難いことで感謝していますが、そんなの分かる訳ないし、それにしたって天下のナイツが1,000円ぽっちとは」と一蹴し。さながら水掛け論の様相を呈する事態に。そうして依然収拾がつかないまま、神田松之丞とナイツは後日番組で共演することが決定するに至っている(しかも番組発表の口外禁止情報をナイツ側から漏らす形での告知となったため状況は最悪である)。

 

 

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話の面白さを字で表現する能力が足りないことが誠に悔やまれるが、硬派熱狂の講釈師・神田松之丞の講談とはまるで真逆で、氏のラジオは雰囲気全体をふざけ倒しながらも正論で身を固め、親の敵討ちのように相手を糾弾するスタイルなのだ。

 

礼節も品もあったものではない。歯に衣着せぬ物言いは痛快そのもの。1年後には真打先生になろうともいうお方が、さながら「駄々をこねる子ども」のようにギャーギャー仰る様はまさに抱腹絶倒。面白すぎる。面白すぎるぞ松之丞。

 

 

[Bonus] 自分にとって良いもの

古典芸能を聞き始めるにあたって下調べすることは特にない。ただ聞き易く、自分にあっていると思うものから聞いてみる。まずはそれだけで十分だと思う。人に自慢したり会話のネタになるものではないかも知れないが、自分にとって良いものであれば、それはそれだけで価値のあることではないだろうか。

 

アニメが好きな方であれば「昭和元禄落語心中」から入るのもおすすめだ。声優の石田彰小林ゆうの怪演が楽しめる。古典芸能への畏怖が演者の気迫や空気感を広げ、声優がどうあるべきかを、業界全体に問いかけ直した効果は看過できない。

matome.naver.jp


兎角、何かをやるには意味を問われる時代だ。

「どうしてするのか?」「なぜしようと思ったのか?」

肩肘張った時代だからこそ縮こまっていてはいけない。小気味いいお囃子と力漲る噺で心身をほぐして、気分を入れ替えてみてはいかがだろうか。

 

 

2019年 1月 21日 月曜日